小菅啓子   田口晴恵   河田美賀子   鈴木雅子   鶴亀彰  
横田淳   阪崎高志   台湾FEPOWs   我孫子洋子   小西孝蔵  

小菅啓子

日本サイド代表

横浜生まれの横浜育ち。 Aglowという女性のための世界的超教派クリスチャングループがあるが、その横浜Aglowの会長をしていた。  1998年、スピーカーとして横浜Aglowに恵子・ホームズを迎えたのがきっかけで、Agapeの活動に関わるようになる。 横浜には保土ヶ谷英連邦軍人墓地があり、横浜アグロー全体が当初Agapeの日本サイドで活動するようになる。

そのうち、Agapeと横浜Aglowは名目上離れるが、両者のかかわりは続き、以後も日本AglowのメンバーたちはAgapeの活動に積極的に関わっている。 Agapeの和解の活動で、恵子・ホームズと共に、シンガポール、ナガランド(インド)、マレーシア、台湾、フィリピン、中国を訪問し、 多くの戦争被害者に会ってきた。Agapeは2004年から中国訪問を開始。上海や南京などで和解の活動が繰り広げられた。 2006年には日本軍拠点があった山西省の性の被害女性たちを訪問している。2010年には5回目の中国訪問をした。

メディアを通して日本を否定的に見てきた中国の人々に会い、過去をわびるとき、彼らは日本人を赦し、新しいドアを開いてくれる。年々充実した出会いが展開されている。 16年間常勤で、その後12年間非常勤で学校に勤め、今は比較的自由に時間を使えるDVシェルターと精神障碍者のためのグループホームで非常勤として働いている。


田口晴恵

私は、今年2011年からAgape Worldに加わりました。 私は、1972年の夏、ちょうど海外旅行が一般の人々にも自由になった頃に 英語上達を目的に渡英。 25年前に開業した「和菓子」卸業は現在ロンドン及び英国内において、 どらやきと抹茶などのアイスクリームをレストランや日本食料品店を通して販売。 現在は娘二人と孫二人に囲まれて仕事もプライベートも充実、 還暦を迎えたことをきっかけにAgape Worldの会計の手伝い、 元捕虜の方々とのイベントにはドライバーとして奉仕しています。

2011年8月21日にカンタベリー大聖堂で恒例の「和解メモリアルサービス」が 午後3時から行われました。 その際に撮った写真 (元捕虜でAgape Worldの親しい友、George Housego、彼の奥さんJuneと私) をここにご紹介します。

9月に予定されている英国北部での台湾で捕虜だった人たち、その家族、] 友人たちの親睦会に私も次女のフランチェスカと共に参加し、 多くの元捕虜や彼らの関係者にお会いするのを楽しみにしています。

2011年8月記

河田美賀子

アガペでいただいた大切な出会い

私たち夫婦は、音楽家です。 私は歌うたいでピアノの弾き語りをし、オカリナ奏者でもあります。夫の河田清治はトランペッターで、よく皆さんの前ではより温かい音のするフリューゲルホーンを吹きます。

アガペのレセプションで、2人で演奏をする機会を何度もいただきました。また、保土ヶ谷英連邦軍人墓地でのセレモニーでも、緑の芝生の上でトランペットやオカリナを奏でました。私は、語彙が少ないなりに英語で会話をすることが好きで、アガペで来日された方たちと触れ合うことも、喜びをもってさせていただいています。 アガペを通して、今までに幾つかの大きな出会いがありました。そのことをここに書かせていただきます。

2002年の秋、アガペ主催「心の癒しと和解の旅」を通して、私はイギリス人で元捕虜の小柄なおじいちゃんに出会いました。 このおじいちゃんは、57年間も日本を憎んで生きてきた人で、深い苦渋のしわが顔に刻み込まれていました。 彼は、日本人をJapと呼び、自分たちへの日本軍の残虐行為について新聞や雑誌に多数投稿し、98年の天皇皇后訪英歓迎式典では、時の首相ブレア氏と天皇皇后が目の前を通り過ぎる時、抗議のために日章旗を燃やすパフォーマンスをして、新聞やニュースに大きく取り上げられた人でした。

しかし、来日した後、彼の日本への見方は180度変わり、私がその旅の終わりに出会ったときには、すでに憎しみから解き放たれ、車イスからも解放されて、日本が大好きなおじいちゃんになっていました。 私は、何年か前に、日章旗が燃やされたニュースをたまたまテレビで見ていて、日本をそんなにも憎んでいる人がいることに驚き、とても印象に残っていました。その2年後に私はクリスチャンとなり、それから4年後に私の属する久遠キリスト教会で、アガペの活動をお手伝いし、そのご本人と出会い、心を通わせ合うことになろうとは・・どう考えても不思議です。

今、彼は亡くなっていますが、その娘さん夫婦と私たち夫婦は仲良くお付き合いさせていただいていて、今月も、来日した彼らと共に楽しく過ごしています。このお付き合いはきっとこれからも続いていくことでしょう。 このおじいちゃんは、ジャック・カプランという方でした。彼らが帰国する前夜のレセプションで彼の目の前に立ったとき、あのニュースで大きな怒りを表現していた人が穏やかにそこに立っていることを思って胸が熱くなり、何も言葉が出ず、ただ"Can I hug you?"(あなたを抱きしめていいですか)とだけ言うことができました。ジャックさんは感動したように私をちょっとの間見つめ、"Sure"(もちろん)と言い、私たちはその場で肩を抱き合いました。それが出会いでした。そして、私たちは文通をするようになりました。

翌年夏、お宅を訪ねて再会したジャックさんは、話したいことがたくさんあると言って、何時間も私と夫の前で戦時中の体験を話し続けました。その隣で奥さんのクラウディアも、黙って聞いていました。彼が話す表情は、まるで孫娘にでも話して聞かせるかのようで、昔の新聞のインタビュー記事に載っていた厳しい顔つきとは全く違うものでした。私たち夫婦は彼らと、その1泊2日心を通わせ合いました。その翌年の1月、ジャックさんは亡くなりました。その年の夏、ジャックさんはもういませんでしたが、クラウディアさんは私たちを再び泊めてくれました。

今、彼の娘さん夫婦が2度目の日本の旅をとても喜んでいて、東京では私たちと遊んで楽しむようになったことを知ったら、ジャックさんはきっと喜んでくださったでしょう。いや、うらやましがるかな・・?(笑)

もう1つの出会いは、ウェールズのクリスチャンのご夫婦です。このご主人が、ボルネオのジャングルで日本軍がさせた死の行進でお兄さんを失った方です。私と夫がアガペの夏の旅に参加してイギリスに行ったとき、貸し切りバスの中で、私は自分が神さまに出会うまでの日々について語っていました。たどたどしい英語で一生懸命話しましたが(しかも長い間-笑-)、誰も聞いていないように見えました。ただ、1番後ろのご夫婦が励ますようにずっと私を見続け、相槌を打ってくださっていたのです。そして、それが本当にうれしくて、終わってから最後列に行った私の手を握り、本当に感動したよ、と何度も言ってくださった。それが出会いでした。 翌年、お宅に泊めていただき、それから数年後、また遊びに行って泊めていただきました。

ウェールズは美しい所です。ミカやキヨに見せたい所がたくさんある、と言って、ご夫婦で色々な所に連れて行ってくださいました。ウェールズは、ロンドンから長距離バスで7時間もかかりますが、その高いチケットも送ってきてくださいました。美しい景色と共に、そのおもてなし、温かさを今もなつかしく思い出します。 彼らが再び日本に来てくれたら、と思いますが、年を取っていてもう不可能だと言っています。だから、またそ私たちに来てほしい、と・・。また、会いに行って喜んでいただけたら、と思います。この地上では2度と会えないかもしれない、と思って別れる別れは、せつないものです。彼らがまだまだ元気でいてくれますように・・。

彼らの家の前に、静かな海が広がっていますが、その崖の上からの眺め、特に夕方は素晴らしかったです。私はそこに何度となく立ち、天のみくにを思ったものでした。その場所でそれぞれが立っているところを撮った写真を、私たちのファーストアルバムのジャケットに使いました。日本にはない海の景色です(私が知らないだけかもしれませんが・・)。そんな写真を、記念すべきファーストアルバムに使えたことも、神さまのプレゼントと感謝しています。

アガペとの関わり、ホームズ恵子さんや小菅啓子さん、その他のスタッフの方たちとの出会いも宝ですが、これらの、普通なら出会うことのないイギリスの方たちとの出会いも本当に宝物です。神さまに感謝します。 恵子さんに、自分たちの活動も宣伝してね、と言っていただきました。

私たちは、夫婦でイングレイスというユニットをやっています。私が作詞、作曲、アレンジをします。夫はフリューゲルホーン1本でしたが、これからはパーカッションもやってくれそうです。曲の感じは、どちらかといえばいやし系です。ファーストアルバムのタイトルは、Ingrace。 TOTOというアメリカのグループの、デビューアルバムタイトルがTOTOだったように、それだけを出したかったのです(笑)。でも、そのせいで、アーティスト名:河田美賀子、CDタイトル:Ingrace、というように間違われることが度々ありました。 今はまだ携帯サイト http://ccnonline.jp/ingrace/ しかなく、かつ、あまり更新していませんが、よろしければご覧いただければ、と思います。感謝しつつ・・。

2011年9月記

鈴木雅子

私は、2003年に英語会話の勉強のためロンドンに2年留学しました。 ある時London三越の本屋さんで何気なく手に取った本、「アガペ ー 心の癒しと和解の旅」に心引かれ購入。夢中で読みました。 感動した私は、このチャリテイ団体のために何かしたいと思い、早速、ボランティアを志望しました。 当時Agape World(旧Agape)のOfficeはロンドンのテムズ川に沿ったオフィス街(ある日本企業が無料で部屋を提供していました)にあり、 Agape Worldのオフィスのある素敵な建物の窓からは、シェイクスピアのグローブ座が目の前に見えました。 私は1週間に1,2度事務の仕事を手伝いました。始めて恵子・ホームズさんと聖書の学びもしました。元捕虜の方たちにも多く会いました。 元捕虜の方々や東南アジアの方々を中心にしたランチョンにも参加し、お料理や接客の手伝いをしました。 元捕虜のおじいちゃんたちはユーモアがあってとても楽しく過ごしました。英会話のほうより、 私は、ソフト・ファーニッシングの方に力を入れるようになりました。そこで学んだ技術を生かして、 英国生地を使ってクッションやいろんな小物を作って楽しんでいます。 私は、2005年に日本に帰りましたが、 日本のAgape Worldの方たちと共に活動し、英国からのお客さんたちのお世話の手伝いをしたり、Meetingには我が家を提供したりしています。 日本に来てからは、教会にも行くようになり、フイリピンの貧しい地域の人たちを助ける活動に参加するようになり、フイリピンを何度も訪れています。 またフイリピンの人たち手作りの小物を販売したりもしています。Agape Worldに関わるようになって、友人層が拡大し、世界が広くなりました。

2011年9月記

鶴亀彰

アガペ・ワールドとの出会い

アガペ・ワールドと私が出会ったのは2003年の9月でした。全くの偶然でした。カリフォルニアに住んでいる私は日本の情報を得るために、インターネットを通じて日本のいくつかの新聞を読んでいますが、その一つが朝日新聞社が発行するインターネット版新聞、アサヒ・コムでした。

ある日、何気なく読んでいたら、一つの書籍紹介の記事が目に入りました。「アガペ 心の癒しと和解の旅」という題名の本でした。出版社はフォレストブックスというところで、著者はロンドン在住の恵子・ホームズさんという人でした。

1人の家庭の主婦が引き起こした日本と元英国人捕虜たちとの感動的な物語が、「憎しみからは憎しみしか生まれません。過去の過ちを謝罪し、赦し合い、和解をして初めて、心の平安を得ることができるのです」の思いと共に記されていました。 私は中学生の頃から第2次世界大戦、中でも太平洋戦争に強い関心を持っていました。

その最大の理由は私が3歳の時にその戦争で父を喪ったからです。高校・大学時代を通じても戦争関連の映画やテレビはほとんど観、本もたくさん読みました。特に1966年、25歳の時に、日本企業の駐在員として米国に渡ってからは毎年12月7日に「リメンバー パールハーバー」の掛け声の下でテレビや新聞で繰り返される報道を通じ、日本では観ることのできなかった米国側の当時の記録写真や映像などを観る機会がありました。

米国での生活を通じて「真珠湾攻撃生き残りの会」や「バターン・コレヒドール米国防衛兵士の会」の会員との交流もありました。いずれも戦争が終結し数10年が経った後も戦時中の苦しみの記憶に悩まされ、日本への怒りや憎しみの思いを抱いている人々でした。 長年の勉強を通じ、私は国と国との戦争が、数え切れないほどの数の個人に与えた被害や傷の大きさを知りました。

戦争は人々を狂気に駆り立てます。普通では考えられない残虐な行為や悲惨な事実を学びました。一夜にして10万人以上の市民が殺された東京空襲や広島や長崎での原爆被害など戦争被害者としての日本人の歴史と同時に、中国や朝鮮半島、フィリピンなどアジアの国々や太平洋の島々などでの戦争加害者としての日本軍の歴史も知りました。日本人の1人としてその両方の事実を心から悲しく、痛ましく思っていました。 

そしてたまたま私は国際ビジネスコンサルタントとしての仕事をしばらく休止し、妻と一緒に2003年夏から、ほとんど記憶のない戦死した父と父が乗っていた潜水艦を求める旅を始めていました。そこでこのアガペとの出会いが起きたのです。泰緬鉄道の建設や日本などでの強制労働に従事した英国やオランダ、オーストラリア等の兵士たちの苦難の物語は映画や本で学んでいただけに、この著書に強い関心を持ちました。 

すぐインターネットの検索エンジン、グーグルで調べたら、アガペワールドという同組織のウェブサイトが見つかりました。そこにはアガペ・ワールドの活動の内容や、同組織が主催している「心の癒しと和解の旅」に参加した人々の証言が掲載されていました。一読して強く胸を打たれました。そこには何十年も日本や日本人に対して激しい怒りや憎しみや恨みを持ち続けていた人々が、信じられないような心の転換を果たした事実が当人たちや家族の言葉で記されていました。

昭和天皇の訪英の際に日の丸の旗を焼いて元捕虜たちのヒーローとなった人が、アガペワールドと接し、嫌い抜いていた日本を訪れ、心が癒やされていました。ジャック・カプランさんと言いますが、彼は帰国するとすぐに日本からの高校生などをホストファミリーとして積極的に受け入れたりするようになり、日本への新たな親しみを育んでいました。

長年の日本への憎しみや捕虜生活中の恐怖の記憶から身体もこわばり車椅子生活だったハリー・ブラントさんという人が日本への旅で日本人を赦し、日本人と友達になったことによって、長年の孤独と苦しみから解放され、喜びを感じられるようになりました。その変化のために硬い身体が柔らかく自由になったそうです。そして車椅子が必要で無くなったという奇跡的な話もありました。

それらの元捕虜の人々や同行した家族の証言の一つ一つを読みながら、彼らの長年の苦労を思い、それから解放された喜びを思い、涙が止まりませんでした。そしてアガペの活動に心からの賛同と共感を覚えました。そして感謝の思いを持ちました。


恵子・ホームズさんとの交流

アガペ・ワールドの活動とそれがもたらしている元捕虜たちと日本人の新しい友情に感動した私は著者であり、アガペ・ワールドの代表である恵子・ホームズさんのメールアドレスを調べ、メールを送りました。インターネットの素晴らしさです。全く見ず知らずの私に彼女から折り返し返事が届きました。2003年9月22日のことです。それからロンドン在住の彼女とロサンゼルス郊外に住む私とのメールのやりとりが始まりました。

私は2003年の秋にオランダを訪問する予定があったのですが、「もしイギリスを訪問なさる機会があれば、ぜひお立ち寄り下さい」との優しい言葉も頂きました。 結局その時は出会いは実現しなかったのですが、翌年の2004年1月に恵子さんと息子さんのダニエル君がロサンゼルスを訪問することになりました。

こちらにあるキリスト教関係者からの招待を受け、アガペの活動について講演を行うためでした。とても素晴らしい出会いでした。2004年1月20日、ロサンゼルス国際空港で出迎えてからの数日間、初対面とは思えないほどお互いに寛ぎ、とても楽しい日々を過ごす事ができました。 

またこれも偶然なのですが、たまたま同じ時期にデュエイン・ハイジンガーという「バターン・コレヒドール米国防衛兵士の会」の事務局長をしている友人が私の家に宿泊していました。彼も私と同じように子供の時にフィリピンで日本軍の捕虜になった父を喪い、還暦を過ぎてからその父の死に至るまでを調査し、それを1冊の本「Father Found(父発見)」に纏めた人でした。

彼の父親は悪名高い「バターン死の行進」をフィリピンで体験し、その後、「地獄船」と呼ばれた日本軍の輸送船で日本での強制労働に送られる途中、船が台湾の港に停泊中にマラリヤや栄養不良のために死んでいました。デュエインは米海軍士官として横須賀に滞在中、海上自衛隊や日本人との友情を体験したことから、日本人の優しさや素晴らしさを知り、元米人捕虜たちと日本人の和解を強く望んでいる人でした。恵子さんとデュエイン、2人とも敬虔なクリスチャンで、英国と米国の違いはあるものの、同じ元捕虜たちと日本人との和解を望む点でも大いに心が通じたようでした。恵子さんとダニエル君のロサンゼルス滞在中、私はアッシー君として運転手役を務めました。広大な上に電車やバスなどの公共交通機関が発達していないロサンゼルスでは車がないとにっちもさっちも行きません。

そのお返しというわけではないでしょうが、恵子さんから一つのご招待を頂きました。「3月の癒しと和解の旅の集いに参加しないか」とのことでした。たまたま私は3月に訪日し、東京にも立ち寄る予定でした。そしてわずか2日間だけでしたが、元捕虜の方々やそのご家族の皆さんと一緒に過ごしました。親しく交流することができました。戦争1代目の方もですが、その子供さんたち戦争2代目との出会いも嬉しいでした。「心の癒しと和解の旅」がもたらす奇跡に近い和解と友情を私は実際に目にすることができました。その上に私には一つの大きな出会いがありました。1人の元英国人捕虜の方と知り合い、そしてその方の協力により、私は更なる奇跡を体験することになるのです。


サー・ピーター・アンソンとの出会い

2004年3月の旅の参加者の中に、サー・ピーター・アンソンとレディ・エリザベス・アンソンというご夫妻がいらっしゃいました。サー・アンソンは男爵で元英海軍士官でした。あの有名な戦艦プリンス・オブ・ウェールズに乗っている時に日本軍の攻撃を受け、海に投げ出されました。重巡洋艦エクゼターに救助され、そのまま同艦の乗組員となったものの、同艦も 1942年3月1日、スラバヤ沖海戦で日本軍に撃沈され、ついには日本軍の捕虜となりました。

それから終戦まで3年半という長い間、セレベス島(現在のスラウェシ島)のマッカサルにあった元オランダ軍兵舎を改造した捕虜収容所で、英国人、オランダ人、米国人捕虜と一緒に屈辱の日々を過ごされたそうです。代々爵位を持つ誇りある家系に生まれながら、マッカサルの捕虜収容所では人間以下の扱いを受けた苦しみはずっと消えることはなかったそうです。

しかしアガペ・ワールドと出会い、心の癒しと和解の旅を通じて、旅の最初から最後まで誠心誠意尽くしてくれるアガペ・ワールドの日本人ボランティアの皆さんの優しさに触れて、彼の心の深い傷も癒されていったそうです。 大柄のどっしりした身体に白髪、年齢にしてはピンクの若々しい顔色で、かけている金縁の眼鏡が少し小さく見えるほど、顔は豊かで大きい方でした。心の奥底に潜んでいた過酷な捕虜体験の苦しみを感じさせない穏やかな表情で、話のわかる好々爺という感じの方でした。彼のスピーチは苦しい捕虜生活中でもユーモアを忘れない英国人気質を思い出させ、何度も会場の笑いを誘いました。 

そのサー・アンソンさんの雰囲気や、その横でにこやかな表情のレディ・アンソンの優しさに誘われ、私は初対面にもかかわらず、一つのずうずうしいお願いをしました。私の横にいた妻は私のその無遠慮さに驚いたそうです。「サー・アンソン、もし出来れば一つお願いしたいことがございます。私の父は日本帝国海軍の潜水艦、伊号第166の機関長でしたが、1944年7月17日にマレー半島とスマトラ島の間にあるマラッカ海峡で、英国潜水艦テレマカスに撃沈され、戦死しました。

出来ればその戦いの詳しい事情を知りたいと思っています。同艦はすでに1961年にスクラップ処理されていますが、もし可能ならば当時の記録などを入手出来ないかと望んでいます」と私は一気に伝えました。最初は私の突然のお願いに驚いた表情でしたが、すぐににっこり笑い、「判りました。英国に戻り次第、すぐに調べて見ましょう」との返事でした。

東京でのその日から1ヶ月ほど経った4月28日のことです。ロサンゼルスに戻っていた私のもとにサー・アンソンからのメールが届きました。

衝撃的なメールでした。「Dear Aki, Success at last! 」という冒頭の文が目に入りました。そして「潜水艦テレマカスのキング艦長と連絡が取れました。彼はまだ健在で、現在アイルランドのオーランモアのお城にお住まいです。現在94歳です」とありました。すぐには信じられない思いでした。私の父を殺した仇がまだ生きていたのです。 

それから現在までの話は長い話になります。現在まで私と妻はアイルランドを3回訪れました。この原稿を書いている現在、キング艦長は101歳になります。今ではあたかも親子のように親しくしています。

2006年7月にはキング艦長と一緒にオランダを訪問しました。オランダには私の父の乗っていた伊166潜水艦がボルネオ沖で撃沈したオランダの潜水艦K-16の追悼碑があり、日英蘭3ヵ国の潜水艦家族で平和を祈る植樹祭をオランダ海軍と共に行いました。キング艦長の娘さんやお孫さんとは一緒に日本旅行も楽しみました。今では本当に親しい友人です。

これらのことは全て2004年3月の東京での心の癒しと和解の旅でのサー・アンソンとの出会い、それをもたらした恵子・ホームズさんとの2004年1月のロサンゼルスでの出会い、そして2003年9月のアガペ・ワールドとの出会いから始まったことです。私のアガペ・ワールドへの感謝の思いは尽きません。その後、「アガペ 心の癒しと和解の旅」を百冊購入し、友人・知人、中でも日本から訪れる若者たちに読んで貰っています。彼らにも今も残る戦争の傷の深さ、広さ、大きさ、長さを知って貰い、癒しと和解と友情と平和の行動に参加して欲しいと願っています。

2011年9月記

横田淳

このところ縁あって夏の一ヶ月ほどをブルガリアで過ごしている。 ブルガリア人の若い友人の一人がロンドンの大学院へ留学するというので、恵子・ホームズさんを紹介してさしあげたら、 恵子さんから、ウエルカムの言葉とともに、ブルガリア人を父にもつ日本人ピアニスト、ジュリア・赤津・ストヤノフさんを ロンドンで支援してきたという話を伺った。「ブルガリアの方々との交流がこんなにも広がるとは何とエキサイティング」と恵子さんはおっしゃる。 世界中の心と心をつなぐという恵子さんの働きは、ついにブルガリアにも及んできたといえる。

恵子さんとのお付き合いは、3年前に遡る。平成20年12月、南原繁研究会が開催される神田の学士会館の食堂で、 夫人がアガペのメンバーである大学のクラスメートの肝入りで、クラスメート幾人かと恵子さんとの昼食会が催された。 そのとき参加したクラスメートの一人が、商社の欧州支配人としてロンドン駐在の経験者だったこともあり、 恵子さんの活動をよく存じ上げていたので、その日の集まりは初対面にもかかわらず、親しさと共感のこもった集いとなった。 小生がその席に招かれたのは、発起人役の友人が、横田ならクリスチャンだから話が合うだろうと考えて、 親しい友人たちに声をかけてくれたからである。あらかじめ恵子さんの著書を送ってくれていたのでなお話がわかりやすかった。

小生がキリスト教に関心をもったのは、大学入学のころ、世話になった先生方に南原先生や矢内原忠雄先生といった内村鑑三門下の諸先生と そのお弟子さんが多くあったからである。2年の終わり頃からは、終生の親友となる星勇兄に連れられて、やはり内村先生の直弟子である塚本虎二先生の丸の内基督教講演会に 出席するようになる。また、本郷の学部に進学してからは、西片町にあるキリスト教学生寮に入って、内村門下やその他の教会の牧師、 司祭である諸先生の薫陶に与りながら学生生活を送った。1902年、ボストンの神学校やハーバードに学んだ一介の苦学生阪井徳太郎の創立になるこの寮・財団法人同志会は、 「品性を修養し知性を啓発して基督教人格を作ろうとする同志」による「清高和楽なる家庭を組織する」ことを綱領としており、 宗派をこえてプロテスタンティズムの正統を維持してきた。

恵子さんを識ってから、塚本門下で学ぶ東京聖書読者会の日曜集会でお話しいただいたり、 同志会学生寮の金曜会礼拝に参加していただいて、礼拝での感話や礼拝後の会食交流会で学生たちの質問に答えていただいたりした。 感受性豊かな学生たちは、事前に恵子さんへの質問を多く用意して賓客を迎え、恵子さんもまた丹念にこれに答えられた。 理事であった小生は、この日の感話や質疑応答を特集して会報に掲載し、理事会の承認を得て恵子さんに提供した。

また、小生は俳句の会を主宰しているが、会の月報の巻頭エッセイや随時発行する掲示板で、恵子さんとの交流やその働きを紹介してきたので、 会員の中にも恵子さんを理解するものがふえて来た。その縁で、この「山麓句会」の会友になった一人にアガペ・メンバーの河田美賀子さんがいる。 会友とは、毎月の投句はしないけれど、月報や掲示板が提供され、投稿や行事への参加が認められるメンバーのことである。

信濃町のレストランで会員が集まった際に恵子さんや日本での世話役代表の小菅啓子さんも加わって歓迎会をもったことがある。 アガペ・メンバーのような直接的な支援の形をとってはいないが、俳句を共通の趣味とするこの仲間たちは、 だれもが恵子さんに敬意と関心と親しみをもっているといえる。妻の百合子が路上で抱き合って別れを惜しみ、 それをもう一人のKEIKOさん・小菅啓子さんが笑いながら見ている写真があるが、これはそのときのものである。 百合子も俳句は作らないが画家のはしくれであるので、会友として、毎年1冊発行しているこの会の句文集のカットを担当している。 その本も今年で15冊になる。ときどきのメールに俳句を織り込み、余裕ができたら本格的に俳句に取り組みたいといっておられる恵子さんが、 わが山麓句会に入会されるのはいつの日のことであろうか。

2011年9月記

阪崎高志

身近な記憶・「戦争の断片」

私は紛れも無く「後期高齢者」と括られる一員で、先の戦争を知っている最後の世代に属します。一旦、戦争が始まると国民の日常生活が戦争に大きく左右されること、戦死の惨たらしい現実を白泉の句は暗示しております。白泉は昭和十年前後に盛んだった「新興俳句」運動の旗手の一人でしたが、やがて当局によって弾圧の憂き目に会いました。

戦争が廊下の奥に立ってゐた    渡辺白泉
   赤く青く黄いろく黒く戦死せり

私の身近なところにも戦争の断片は幾つかありますが、代表的なものを話しましょう。

妻は福井市で空襲を体験し焼夷弾が降ってくる中を家族四人で懸命に逃げて命拾いをしました。女学校の教頭をしていた妻の父は警戒警報発令とともに天皇陛下のご真影を守るために学校へ出かけたのですが家の方角の空が真赤に燃えているのを見て引き返して来て家族を誘導して郊外へと逃げたのです。翌朝、家があった辺りへ行ってみると一面の焼け野原で幾つもの焼死体も見たそうです。もし、父が引き返して来なかったならば庭の防空壕の中で焼死していたかも…と述懐しております。

職務への忠誠か家族への愛か、迷うことなく家族への愛を選ぶには当時としては勇気のいったことでしょう。

長兄は海軍の兵卒で建造されたばかりの最新鋭の駆逐艦「涼波」に乗り込み南の海へ。ソロモン海域を西に東に敵艦を探しもとめたものの遭遇せずラバウル基地に帰港。その二日後、出撃準備をしている最中に敵機の襲撃を受けました。艦はタラップを揚げる間もなく発進して十二・五糎砲六門で迎え撃ちましたが二百とも三百とも知れぬ敵機の数に衆寡敵せず、機銃掃射と空中魚雷による猛攻に曝され甲板はたちまち阿鼻叫喚の巷と化しました。艦は完全に戦闘不能の状態に陥り、やがて大轟音とともに真っ二つに折れて乗組員はあっというまに海中にほうり込まれました。

気がついたらラバウル海軍病院のベッドの上、外傷は多少の打撲傷とかすり傷ぐらいでしたが海水と重油をしたたかに呑んで重度の胃腸障害を起こしていました。ちなみに「涼波」の乗組員二百数十名のうち戦死者は二百名近く、生還できたのは幸運としか言いようがありません。

身近な戦争の断片を述べましたのは「戦争の虚しさ」を今一度確認したかったからです。恵子さんの「和解」へのひたすらな活動は自ずと「不戦」に繋がっていくのでは。

2011年10月記

台湾FEPOWs

私たちは台湾で捕虜生活を送りました。台湾の炭鉱は海底にありましたから、収容所からそこまで降りてゆくのも、のぼって帰るのも大変でした。多くの友人が次々に亡くなりました。

毎年ニューカッスルの近くのTyne & Wearと言うところで、「台湾元捕虜親睦会」がもたれていますが、毎年元捕虜の集まる数は少なくなってしまい、2011年は私たち5人だけでした。でも嬉しいことに、家族や友人50人が集まりとても楽しい週末を過ごしました。Agape Worldの人たちも4人参加してくれて、ほんとうに嬉しく思いました。

この写真は親睦会で行った、戦友のMemorial Serviceの時写してもらったものです。メモリアル・サービスでは恵子が祈りました。心に触れる祈りでした。それまでは泣かずにいた人たちも涙を禁じ得ませんでした。

StanとGeorgはすでにAgapeの「心の癒しと和解の旅」に参加して多くの日本人の友達を得ています。まだ日本に行っていない者は、来年行きたいと願っていま

す。   日本で皆さんにお会いできる日を楽しみに生きています。
  See you soon
台湾FEPOWs

2011年11月記

我孫子洋子

私を呼んでくれた本 アガペ(AGAPE)

本屋さんや 図書館に行った時、自分が選ぼうとしているジャンルではないのに、何故か磁石で引っ張られるように引き寄せられてしまう本がある。私にとって、その中の1冊が恵子ホームズ氏の「アガペ」だった。この本を、たまたま日本人会の図書館から借りてきて、読んでいる真っ最中に「この作者と数年前にシンガポールで会って、人生が変わった!」というエバさんという(当時72-3歳の)中国系の女性とお会いすることができた。

この日は、マラさんという、インド人の友人のお誕生日で、私の他に、彼女の親しい友人たちが、ご自宅でのランチに招待されていた。彼女は、シンガポールが昭南島だった時代、小学校で日本語教育を受けていた為、自分の名前を今でも「マラ」とキチンと書ける。マラさんは、私にとって、同じコンドミニアムの隣人であり親しい友人でもあり、身近な英語の先生でもあった。エバさんとマラさんは、かつての小学校の先生仲間で、50年来の無二の親友だと聞いた。

料理自慢のマラさんの娘さんが彼女の為に用意した素晴らしいフルコースのホームパーティが和やかに進んでいく。私はこのような特別な場に友人の一人として、招待を受けたことに心から感謝した。彼女が 私の事を「ヨーコの関心事は、食べ物と歴史問題だ。」と皆に紹介すると、このエバさんが静かに語りだした。

「夫と二人、世界中をあちこち旅してきたけれど、日本にだけはまだ、行っていない。特に夫には、深い心の傷がある。でも、数年前ある教会関係の集会で、イギリス人と結婚した日本人女性が、「謝罪と和解」に来られ、その時、彼女と抱き合って泣いたら、許せる気がした。そしたら、今日、神が友人として、日本人であるヨーコを目の前に連れてきてくれた。本当に神のご加護だね」

この時、読んでいたアガペに掲載されていた1枚の集合写真の中にエバさんが、虫眼鏡でやっと見えるくらいの大きさでちゃんと写っている。本を見せて、全員で強烈に驚いた。まさに 私の人生の3大ビックリの中の一つだった。この本は私をあの時、書架の中から、本当に呼んでくれたのだった。

その後彼女は、めでたくご主人と北海道旅行に行き、「日本人は皆親切でよく気がつき、感動した!行ってヨカッタ」と束になった写真を見せて貰った。

マレーシアで自動車部品工場を経営する彼女の弟さんは日本車にいくら人気があっても、日本製品の部品は絶対置かなかったのがエバさんの影響で最近は置くようになり、商売も良くなったとあの時笑って話してくれた。

「戦争は国と国の喧嘩だが、人間の心の傷は、個人と個人の暖かい心のふれ合いでしか癒すことができない」と かつて、佐藤初女先生がおっしゃった事を今しみじみ思い出す。

その後、私は、この恵子ホームズさんをイギリスに訪ね、泰緬鉄道(DEATH RAILWAYS )で、元捕虜だったトミーさん(当時80代後半)の病床をお見舞いすることができた。


ホームに入ったトミー・ケント(中央)を訪れる洋子(トミーの左隣)

熊野市紀和町でマイクを独占するトミー
恵子ホームズ氏は、日英の和解の為、アガペワールドを立ち上げ、映画「戦場に架ける橋」で描かれた悲惨な捕虜体験をされた英国の老兵士の方たちを支援する活動に対し、1998年、英国女王から勲功章を受章された。 今秋は4人の元捕虜の方たち(全員90歳代)が、アガペのご支援で来日されるとの事、マクロビヨーコとしても、非力ながら、サポートさせて頂きたいと願っています。

小西孝蔵

惠子ホームズさんとアガペーとの出会い

(惠子ホームズさんとの出会い)

惠子ホームズさんとの最初の出会いは、今から約20年前、私がロンドンの日本大使館の参事官として赴任していた頃でした。ジャパンソサイアティ(日英協会)のレセプションに家内と一緒に出席していた時,同じテーブルにお話しさせていただいたのが、惠子ホームズさんでした。当時、ジャパンフェスティバルが初めてロンドンで開かれ、多くの日系企業が英国に進出して、日英関係が良好になっていた頃でした。その中で、POW(戦争捕虜)の問題がのどに突き刺さった小骨のような痛みとなり、深い陰を落としていました。正直言って、私がロンドンに赴任するまで、POWの問題があることにも気づいていませんでした。そんなことも知らないでイギリス人とお付き合いしていた自分が浅はかに思われました。


11月11日はポピーの日。戦死した兵隊や捕虜として亡くなった人たちを偲ぶ日。また「2度と戦争をすまい」との思いが込められているポピーが、9月ころから巷にあふれる。ロンドン、ビクトリア駅にて。

ホームズさんのお話を伺い、自分を犠牲にしてまでも英国の戦争捕虜の耐えがたい苦しみと傷のいやしのために全力を尽くされた彼女の姿に感動しました。日本人に対する憎しみを抱き続けている元戦争捕虜の多くの英国人とその家族に対し、日本人を代表して心から謝罪し、和解への道を開かれました。そうした彼女の信仰と愛の実践は、素晴らしいものでした。1988年天皇陛下ロンドンご訪問の際、日本の国旗に火をつけて抗議した元戦争捕虜のジャック・カブラン氏も彼女に出会って日本への憎しみが取り除かれた一人でした。日本への和解の旅に車いすで参加した元戦争捕虜が憎しみと車椅子から解放されて、日本のファンに大変身して帰国した話も伺いました。 私たちがその後日本に帰国してから、惠子ホームズさんが英国からお連れしたイルカボーイズと言われる元戦争捕虜らの歓迎レセプションに家内と何度か参加させていただきました。私たちは大したお手伝いもできず、内心忸怩たる思いでした。当時大使館でご一緒させていただいた藤井大使がその後、元戦争捕虜の方々の和解の旅に日本政府としてもお手伝いされたことを後でお聞きして、嬉しく思いました。  最近では、惠子ホームズさんが、日本にいらっしゃる機会にインターナショナルVIPクラブの会合や教会にお呼びして、彼女の献身的な活動と和解の旅のお話を伺いました。戦争捕虜として非人間的な扱いを受け、その憎しみによって長年閉ざされた心が、イエスの十字架によって示された神の愛、アガペによって癒されていくというお話しを繰り返し伺い、感銘を受けました。

(アジアの隣国との和解と交流)

 私事になりますが、今から約40年前、大学3年の頃、日韓の学生によるワーキングキャンプに参加しました。戦争中に日本軍が堤岩里教会焼き打ち事件など朝鮮人を虐殺したり、苦しめたりした過去の罪の赦しと和解に気持ちを伝え、両国の若者同志の未来の関係を築きあげるものでした。両国の大学生数10数名が参加し、真夏の炎天下1週間、大邱市で児童公園の造成工事に取り組みました。私は、働き過ぎて熱射病にかかり、ホストファミリーの韓国人家族にご迷惑をおかけしましたが、親切に介抱していただいて助けられました。ワークキャンプを通じて韓国の同世代の友人ととても仲良くなり、私たちの仲間から韓国へ留学して日韓の架け橋となった人もいます。私もいまだに文通を続けている友人がいます。  中国や韓国との間には、戦前の日本軍の侵略行為に対して今日なお大きな反発があります。若い世代にもこの歴史認識と敵対感情は受け継がれていきます。日本の中では、中国側の主張は歴史的事実ではないと主張する人たちもいます。しかし、正確な死者の数が把握できなくても、日本軍関係者などの証言から見て、日本軍の行った行為は動かしがたい事実だと理解しています。謝罪の表明については、タイミングや場をよく見ることが必要ですが、個々人が過去の歴史的事実をよく学び、謝罪と和解の気持ちを心に持ちながら、相手に接するのでなければ、両国の間の不信感や対立はいつまでも消えることがないでしょう。大分前のことですが、プライベートの場で、中国の友人との話の流れの中で、私の方から、戦争中の日本軍の行為について謝罪の気持ちを伝えたところ、友人の表情が変わり、より親しくなることができたというささやかな経験もあります。  もちろん、領土問題や知的所有権の問題など主張すべきことは、はっきりと主張すべきではありますが、国家対国家、企業対企業だけでは、中々信頼関係が深まらないのではないでしょうか。そこに、民間の草の根国際交流の役割があると思います。過去の歴史認識を踏まえた人と人との交流が相互の信頼関係を築き、やがて国と国との関係改善に寄与するものと信じています。 日本で勉強している留学生の数は、年間約14万人で、国別でみると上位5カ国が、中国、韓国、台湾、ベトナム、マレーシアで約12万人と大半を占めています。私も、若いころ米国の大学に留学していた時に、ホストファミリーの家庭に週末招かれ、大変お世話になりました。御蔭様で、独身でも孤独を感じることはなく、今でもありがたく感謝しています。東南アジア友好協会も戦後早くから東南アジアの留学生を受け入れ、東南アジア各国との交流に大きな働きをしています。アジアからの留学生を家庭に招いたり、大学以外で交流する機会を持つことによって、日本人に対する信頼感が生まれるものと思います。

(アガペーによる平和の絆)

イエスが山上の垂訓として語られた言葉に「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。敵を愛し、迫害するもののために祈れ。」(新約聖書マタイ5章43節、44節)とあります。このことは、常識的には不可能なことです。しかし、ひとり子キリストをこの世に遣わされた神の愛(アガペー)によれば、不可能が可能となるのだと思います。使徒パウロがこう言っています。「キリストは、私たちの平和であって、・・・彼に会って、二つのものをひとりの新しい人に造り変えて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ人への手紙2章14~16節)。惠子ホームズさんの働きは、まさにこれらの聖書の言葉が、国境を越え、様々な偏見や対立を超えて、真の平和をもたらすことを示しています。そこにアガペー(神の愛)が働くからです。これまで長年継続して取り組んでこられた彼女の和解への活動によって、アジアも含めて、人と人、国と国との間に新しい信頼関係の輪が広がっていくことを願っています。